九月定例会振り返り

今回は初めて微妙な対話になった回でした。「微妙な対話」の説明は後にするとして、まずは内容から。

今回の問いは初めは「なんで(日本では)出欠を大事にするのか」でした。アメリカなどでは、ディスカッションの様子や提出物などのみで学校の成績をつけるそうです。出欠をとることで本人の実力だけでなく、「頑張り」を評価しているのではないかという意見などが出ました。それに対して、必ずしも授業への態度=学問への態度であるわけではないのに授業への態度を見る必要があるのか学問を修めるために出席(主に高校、大学のもの)を見る必要はあるのか等の疑問が出ましたが、結局結論としては、現在実際は大半の学校の役割は人材育成の面が大きくなっているので、日本国内の社会情勢として、欠勤が許されるような状態でなく、その環境に適応させるために出席によって評定が付くように、単位に影響が出るようにしているのではないかという事になりました。

すぐにこの結論が出てしまったので、問いを変えるかどうかが議論になりましたが、これまでの話の流れを踏まえて、「頑張っている人は評価されるべきか」という問いが出ました。評価されるべき、というのはプラスの意味で評価される、褒められるという意味です。問い出しにあった、「なぜ多忙アピールをする人がいるのか」という問いも影響していると考えられます。

まず、頑張っている人の定義から始めました。頑張っている人には二種類の人がいて、目標達成のための努力をしている人と自己満足の行動をとっているに過ぎない人がいるという事になりました。主に努力について話し合う事になりましたが、初めはこの分類が頭の中からすぐ消えてしまい、混同して話している人も多かったように思われます。その後、努力と才能の違いや、努力と怠慢の違いについてこれもそれぞれの具体例を混同しながら話しました。才能に関しては深く話し、ジェラシーを感じる人がなぜいるのかなどの話もしました。障害者の話を見て感動する話やウサギとカメの話からコツコツ積み重ねる、つまり努力することは本当に評価されるべきことなのかなどの様々な話も出ました。最終的には困難(努力や障害など)を乗り越えて一定の成果を得たまたは得る見込みがあると場合は評価すべきだというところに落ち着くのではないかと思われます。


ではこの対話の何が微妙だったのかというと、イメージとして今回の対話はうまくまとめてより普遍的な話に持ち上げていくことができなかったという事です。今まではなかなか抽象的な話も多くまとめるのも難しい対話をしていましたが、今回はまとめやすい、ある種面白みがほとんどない対話になってしまったと思います。個人的な体験と結び付けてみることくらいしか面白さがありませんでした。


失敗した理由の一つには、自分たちで話し合ってもそのもの自体を変えることが難しく、また結論が自分たちの中ではわかりきってしまっていると思っている(実際の正誤は抜きで)問いだったことが挙げられるでしょう。(本来この考え方は哲学対話の姿勢とは違うもののように思われもしますがまた別の機会に。)

また、今までのありとぷらを振り返ると、二面性や同時性が議論に現れると途端に話し合いの場が混沌としてしまう傾向にあると思います。基本ありぷらではファシリテーターなるものが存在しないので、上手く分けて考えられるかどうかは参加者の技量にかかってしまう事があらわになりました。今回に関してもかなりたくさんのことを訳も分からず同時並行で話してしまった感があるので、それも失敗の要因でしょう。

めずらしく明確な答えのようなものが出た(出てしまった?)ありぷらでしたが、かなり哲学対話では特異なように思われます。(学校などではよくありますが)

眠いと対話に支障をきたすこともわかりました。

次回からはきっちり寝ます。


次回のお知らせはもう少しお待ちください。

ありとぷら

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