七月定例会振り返り
7/9(日) まなび創生ラボ東日本橋SHOKUTAKU 14:00~17:00 6名(初参加3名)
「道徳の授業の必要性はあるのか」というのが今回の問いでした。社会的なテーマで、今までのありとぷらとはまた違った雰囲気の対話だと感じました。
まず前提として、ここでの道徳の授業とは私立などで行われる学校の沿革を学ぶようなものではなく、副読本などを使って道徳心を養う授業のことです。道徳の授業では一般論を押し付けるだけでそれ以外の意見を否定されるのでよくないという人が多数派でした。こういう話になるだろう、というのは予想できたことでしたがこれでは道徳教育に対するただの愚痴になってしまうので内心私は焦りました。しかしその後教科としての道徳だけでなく、日本人の道徳心に話題が移っていったように思います。その中で、法律と道徳の関係性の話が印象に残りました。そもそも法律というのは(日本では)多数派の意見によって形成され、道徳(ここでいう道徳とは教科の話ではなく、倫理のような感じです)に基づいて作られているように思えます。しかし、その道徳心とは自分が生まれてから影響を受けた親や友人、教師などに依拠していて、結局のところは法律によって道徳が形作られているのではないかという考えも出てきました。また、行動に移さない限りどんな思想を持っていても許容されるべきである(いわゆる内心の自由というやつです)という多様性を重視する意見が多く出てきました。道徳の授業においても、多様性を認めるような授業にするべきだ、と考える人が多数派でした。(というよりいまいち腑に落ちていないのは私だけ)
今回の対話では内心の自由、表現の自由、多様性の存在...これらは人間に与えられて当然の権利である、という考えが色濃く反映されていたように思います。しかし、私にはそれらはしかるべきものである、という思想自体が偏っているように感じました。もちろん、私の主観ではこのような権利は大切であるし、その恩恵を大いに受けているわけですがそもそも人類の長い歴史で見ればかなり最近になって世界の一部で浸透してきた思想です。そこに強い違和感を感じながらの対話でした。もう少しそういうところまで踏み込めたら面白かったかな、とは思います。
最後の振り返りの時間で出てきた話としては、大人になると柔軟でなくなる、という前提をみんな持っている、ということです。これはありとぷらが10代限定となっている一番の理由なわけですが、そこには対話を円滑に進めるために考え方が変化しない人を排除するという姿勢があります。さらにその上には思想は柔軟であるべきだ、という前提があるわけでこの意見はかなり一般的なものだと思います。これはほとんどの人が当たり前だと感じているであろうことですが、改めて振り返ると興味深い事実だと思いました。この話を掘り下げていくと哲学対話の意義のようなものにも繋がっていくような面白い話だと感じました。
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