7月定例会振り返り

筆者:ヨシザワ


今日は雨が降っていました。しんしんと降る寒い雨ではなく、曇りの中パラパラとふる蒸し暑い雨です。久しく振り返りをしていなかったですが、もうこんな季節になったのだと、時の流れは早いな、と感じています。


さて、今回は「生きる」ということに関連した問いがとても多く出ましたが、その中から「なぜ、ベジタリアンやビーガンなどの菜食主義者は肉を食べられないのか?」という問いを選び、対話しました。(どのような問いがでたのか、詳しくは1枚目の画像をご覧ください。)


また、初参加の方(なんと初めての美術高校の方!)が1名来てくださいました。ありがとうございました。

哲学対話では、人の数が多ければ多いほど多様な意見が出て、有意義な対話ができます。今後も多くの方の参加をお待ちしています。


さて、この振り返りには、<要約>と<対話を振り返って>の2つの部分があります。<要約>にはだいたいの対話の流れが書いてあり、<対話を振り返って>には詳しい対話の内容が書いてあります。まず、<要約>を見ていただき、もっと詳しい内容を知りたいという場合は、<対話を振り返って>の方を見ていただけると良いかと思います。



<要約>

今回の議論は、「菜食主義者は、本来、人と動物は対等な生物同士である、と考えるから肉を食べられないのではないか」という意見から始まりました。対等というのは、人以外の動物も、人と同じようにものを考えて生きているということです。

ここから、「菜食主義者にとって、動物はどんなものでも人と同様に、殺してはいけない存在なのか」という疑問が生まれ、いろいろな具体例を挙げて考えてみました。その一つに、培養肉の例が挙げられます。培養肉は肉なので、動物のような気もする。しかし、実際に生きていたものを殺して得られる肉ではなく、培養器で人に育てられ、終始植物のように動かず生きているので、植物のような気もする。このような例をもとに、人と動物と植物の境界をはっきりさせようとしました。

そして今度は、「境界をはっきりさせることで自ずと、菜食主義者が肉を食べられない理由や、どこまでを肉とするのかという疑問に答えられるのではないか」と考え、議論することにしました。

ただ、「菜食主義者にとって、培養肉のようなものが動物か植物か、などのような違いは関係ないことかもしれない」という意見が出てきました。というのも、培養肉などは人工物だから、もはや動物でも植物でも何でもないものであり、重要なのは、人の手が加えられていること自体が生き物を侮辱し、生死の尊厳を奪っていることだからです。

さらに、菜食主義者にとどまらず一般的な視点から、「命の重さやその価値、という方向で、生死の尊厳について境界を引くことはできるのか?」について考えていきました。

これに対しまず、「象などの寿命が長い生き物が一匹死ぬまでの間に、ハエなどの寿命が短い生き物は何回も死んでおり、寿命が短く小さな生き物の方が死が近しく日常的なものだと言え、命が軽い。このような基準で命の重さを分類できるだろう」という意見が出ました。

これに加え寿命にかかわらず、生物はどんなものもそれぞれ環境を形作っており、環境への影響という観点では、また異なる分類の仕方になるのではないか、という意見も出てきました。

こうした様々な命への価値づけの仕方が提案されましたが、人それぞれ各種の動物に対して感じる命の重さは異なるが、もっと客観的に決まるような境界の基準もあるのではないか、という意見も出てきました。

これを踏まえ、「そもそも生死の尊厳に”境界線をひく”ことを各々はどのように考えているのか?」、について話をしました。

ただ、この部分は少々議論が複雑になっているので、この要約では省略させていただきます。詳しく知りたい方は、ぜひ、<対話を振り返って>をご覧ください。(本当に読んでほしいので!)

そして、最終的には、「各々が考える命の重さの境界線」について議論を深めていくと、「客観的に決まるような命の重さの境界線」はない、と否定され、このあたりで議論は終わりになりました。また、対話を続けるとしたら、これからどのような方向に議論が続いていくのだろうか、ということなどを話しながら、振り返りをしました。



<対話を振り返ってを読むにあたっての注意事項>

・掲載してある写真に書いてあることは、メモ書き程度のことです。ざっくりと流し読みしてください。

・大筋は抑えてありますが、この振り返りに書いてあることは議論の一部にすぎません。実際は、対話に参加しているほとんどの人が、ここに書いてあることを考えながら、議論に対して別のアプローチもできないかと考えていると思います。気楽な気持ちで参加をしてはいますが、考えることに関しては、真剣に向き合っています。

・<対話を振り返って>の中で、しばしば「彼ら」という単語が出てきますが、「彼ら」は「ベジタリアンやビーガンなどの菜食主義者」のことを指します。文章を分かりやすくするために、短く省略しました。ご了承ください。

・前半と後半の間に、1回はっきりと休憩を入れています。休憩が終わった後から、後半とお考え下さい。また、今回は、全体で約4時間の大変な哲学対話となりました。この振り返りも、分量がかなり多いので、休憩しながら読んでください。



<対話を振り返って>


さて、やっと対話の詳しい内容が書けます。


改めて確認しますが、今回の問いは、「なぜ、ベジタリアンやビーガンなどの菜食主義者は肉を食べられないのか?」でした。


ベジタリアンについて、知らない方もいるかと思うので、ここで説明しておきます。

ー菜食主義者。肉や魚などの動物性食品をとらず、野菜・芋類・豆類など植物性食品を中心にとる人。肉類に加え卵・乳製品なども一切食べないビーガン(ピュアベジタリアン)、植物性食品と卵を食べるオボベジタリアン、植物性食品と乳製品を食べるラクトベジタリアンなどのタイプに分かれる。

(引用、goo国語辞書:https://dictionary.goo.ne.jp/jn/198929/meaning/m0u/


いつも、問い出しが終わって、対話の最初に、そのテーマや問いを出した人に、そのテーマや問いがどのようなものなのかについて、説明をしてもらっています。


今回は、こんな方向から始まりました。


・今の時代では、人が生態系保護のためと、まだ本来の環境が残されている地域を、国立自然公園などと設定し、公園の職員が銃で公園内の動物を殺し、その数を調整することで自然を保存したり、人が動物を家畜化し支配したりして、動物の生き方を制限している。そんなことは、本来対等な生物同士である、人と動物の間にあってはならない。故に彼らは肉を食べられない。


・また、人と動物は対等であるので、養豚場で飼育した豚のように、最初から最後まで人がその世話をしたからといって、その豚を殺し、肉を食べても何をしても良い、ということにもならない。




ところで、さらに議論を面白く、深め、ややこしくする例として1つ、1度死んだ豚の脳細胞が生き返ったニュースが挙げられます。(こちらを参照:ニュース1またはニュース2

この事実によって、脳死の定義が揺らぎかねません。この例をもとに、死とは何か?、や、命はどこにあるのか?、などの方向に議論が進んだかもしれないですが、今回はこちらの方向に議論は進みませんでした。しかし、このこともこのテーマに深く関わっています。考えてみると、面白いかもしれないですね。



話が逸れました。


次は、ある人の、こんな問いかけから始まりました。


「豚って何か考えているんですかね?」


僕は、「いや、考えてるでしょ。ものを食べたいとか、寝たいとか。何かしらは考えているよ。」と思いました。


ただ、その人が全員に「豚は何かを考えながら生きていると思うかどうか」を聞いたところ、僕と違い、そうは思わない人もいました。


ここで、質問が出ました。「考えることはどういうことを指すのか?」と。


我々人だって、自分の思っていることが、自分ひとりで考えたことなのか、最初から自らが考えたと思うように仕組まれていただけの勘違いなのか、分からない。自分のことでも分からないのに、豚のことなんて分からない、と。


ただ、質問の真意は違ったようです。


考えるとは何か、とか、我々人はどうして意思疎通ができていると思えるのか、とか、本当に相手に自分の思っていることを伝えられているのか、とかいう話ではなく、

考えることは、ただ単に何かを思うことと区別され、我々人はその考えることをできている、という前提で、豚などの動物は人と同じように何か考えているのか否か、という問いであった、ということです。


また、この前提の下で、彼らは、豚などの動物は我々人と同じように何かを考えながら生きている、と考えているから肉を食べられないのではないか?、という意見が出てきました。




次に、彼らにとって、豚や鶏などの動物はどんなものでもすべて等しく殺してはいけない格にいるものなのか?、という疑問が起こりました。彼らにとって、その食べ物を食べて良いか悪いかの基準は、動物か植物か、の違いです。では、彼らにとって、何が動物で、何が植物なのでしょうか?



これについて、いろいろな例を挙げて考えてみました。除脳された鶏の肉や、培養された肉、さらに、木にその部分がバナナのように付いて生えている鳥のモモ肉、などの想定も含めて、考え得るすべての肉について、その肉の格は、動物か植物か、どこに位置するのか、考察してみたりしました。ここでは、今挙げた3つの例についてのみ書いておきます。



・「除脳された鶏(の肉)」と「除脳されていない鶏」を比べてみる。前者は、もう脳みそが取り除かれているので、ピクリとも動かない。いわば、植物のような状態である。後者は、脳みそがちゃんと入っていて、動いているので、動物として生きていると言える。ここで、こんなことを考えてみる。もし、何らかのアクシデントで野菜を全く食べることができなくなり、彼らが生きるためにはこのどちらかの肉を食べなければいけないとき、(もちろん、後者の場合は鶏を殺さなければならない。)「除脳された鶏(の肉)」と「除脳されていない鶏」のどちらを選ぶのだろうか?答えに迷うようであれば、脳みそがあるかないかで、殺しても良いか否かの度合いが変わるということであり、一方をもう一方より低く考えているということになる。反対に、答えに迷わないようであれば、脳みそがあるかないかでは、それが動物であるのかないのかについて、決まらないと考えていることになる。つまり、前者はただの肉であるが、後者と同じように、命をもって動物のように生きている、と考えているということである。


・では、除脳された鶏の肉は、動物としての生を生きているのか、植物としての生を生きているのか、はたまた生きていないのか、何なのだろうか?


・培養された肉の場合も同様だ。培養肉は肉なので、動物なような気もするが、しかし、命をもって実際に動き回り、生きていたものを殺して得られる肉ではなく、培養器という畑で人が育て、その始まりから終わりまでさながら植物のように動かず生きているものなので、植物のような気もする。


・「木にその部分がバナナのように付いて生えている鳥のモモ肉」については、こんな想定をする。あるところに、ひとりの人間がいるとする。彼は、鳥のモモ肉を見たことがないものとする。あるとき、彼の友達がいたずらで、果物が付かない木に、大量の鳥のモモ肉をつるして、その木の果実がモモ肉であるように見立てたとする。(もちろん、彼はその木に果物が付かないことを知らない。)その後、彼がその木の光景を見て、当初の思惑通りまんまと、「果物」が木になっていると勘違いした。驚いて、彼はいたずらをした友達に「果物」をもっていき、こう聞いた。「この果物の名前はなんていうの?」友達はこう答えた。「あー、これはね。”モモ肉”っていうんだ。面白いだろう。」彼は、納得して、そのまま帰ってしまった。それから、彼は生涯それを「モモ肉という果実」と勘違いしたまま死んだ。この場合、「果物」は本当は木の実ではなく、動物の肉だが、彼にとっては「果物」だった。もし、彼がベジタリアンやビーガンなどの菜食主義者で、この「果物」を食べてしまった場合、彼は菜食主義者ではないことになるのか?


※本当は、生物学的にはっきりと動物か植物かを分けるのは”栄養”や”細胞”という観点からなのですが、ここでは、「動いていて他の生き物を食べる見た目が動物っぽそうなもの」を動物、「動いていなくて他の生き物を食べない見た目が植物っぽそうなもの」を植物、としています。

こちらを参照:学会の説明系統樹について生物の歴史から見て


また、この議論に対する別のアプローチとして、こんな話も考えられます。


・除脳された鶏の肉は今は生きていないかもしれないけど、ほんのちょっと前までは生きていたわけで、それをただの肉と見做す(みなす)のは、いささかおかしいのではないか?人の死体をただの肉と言って埋葬しないのと同じではないのか?




さて、具体例を挙げて考えてみましたが、そのうえで、人と動物と植物の違いはどこにあるのか、その境界をはっきりさせることで、自ずと、彼らが肉を食べられない理由、彼らがどこまでを肉とするのか、に答えられるのではないか?、と考え、この方向で対話してみることにしました。


ですが、すぐにこんな予測が出てきました。


・培養肉などは人の手が加わっているから、もはや彼らにとっては動物でも植物でも何でもないものである。彼らが重要視しているのは「人の手が加えられている」という一点である。人が生き物に何か手を加えることを、今の時代の人類は盛んに行っている。例えば、培養、養殖、家畜化、食肉工場、生態系保護など。この行為そのものが動物や植物を侮辱し、その生と死の尊厳を奪っている。故に殺してはいけない。除脳や培養なんてもってのほかだ。


こうして、彼らにとって動物か植物かの違いは関係ないことであるかもしれない、と示され、これまで、彼らにとって動物か植物かの違いは重要なことである、と対話していた前提が崩れました。僕にとってだけかもしれませんが、少なくとも僕にとって、この予測が、いままでの議論をすべて上手くまとめて包括しているように思えたので、一度対話をストップにしました。僕は、いったん休憩を入れました。頭を柔らかくし、ここからさらに議論を進めるためです。ここまでだいたい2時間くらいです。


ここから後半です。途中参加で人数が増え、議論も少々煩雑になってきます。



再出発は、やはり、根本を問い直すことから始まりました。


それは、「生き物の生死の尊厳について境界を引くことはできるのか?」ということです。


※「生き物の生死の尊厳について境界を引くこと」とは、「命の重さを階層化して、それぞれに分類すること」としています。これは、対話をしていく中で、最終的な共通認識として、確立されたものなので、はじめから全員がこう考えてはいませんでした。


前半では、ベジタリアンやビーガンなどの菜食主義者の方の気持ちや、生き物に対する考え方などについて議論していました。ですが、後半からは主に、彼らが生き物についてどう考えるか?、ではなく、一般的に生き物についてどう考えられるか?、について議論しています。上の問いも、「一般的に生き物の生死の尊厳の境界ついてどう考えられるか?」、という意味と捉え、議論しています。




・これは今書きながら思ったことですが、ただ、こんなことも考えられます。(文明形成云々と写真に書いてあることに連関します。)


今の人類はあまりにも野生から離れすぎている。都市化された人間は生や死について無頓着になる。例えば、今の時代に先進国の人口100万人以上の都市で暮らすような人間は、一生のうちにどのくらい自らが食べるものを自らで殺すのだろう。食卓にでてくるものは、すでに加工されてあるもの。身の回りにあるのも、コンピューターや冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、スマホなどの電化製品ばかり。昔は自然の中で、あるいは自然とともに人は育ったものだが、今はビルばかり。さて、このような環境で育った人間が、果たして先人たちが見てきたような常識的な死生観を持つのだろうか?


単に、自分が普段何気なく食べているものがどこかで殺生された生き物であること、を、自分の知らない遠いところで嫌なことが起こっているだけ、と捉え、不快に思っているだけではないか?


だから、「彼ら」という風に、ベジタリアンやビーガンの人たちをひとまとめにしてはいけない。生き物の生き死に真剣に向き合っておらず、ただ流行っているからというだけで、一瞬だけベジタリアンやビーガンになるような輩もいる。(→ベジタリアンやビーガンという言葉が広まった理由として。)対して、本当に肉を食べられなくて、または、肉を食べる行為がどうしてもその人にとって許せる行為でなくて、ベジタリアンやビーガンである人もいる。


また、豚などの動物を同じ立場だと思っているからその肉を食べられない人もいれば、逆に、異質なものだと思っているから生理的に受け付けない人もいる。人それぞれ、生き物の生き死にに対する向き合い方が異なる。(例えば、古来から日本では、食前にいただきますと言って、食べ物に感謝しながらその死を意識することで向き合ってきた。)




今回の哲学対話では、「彼ら」を、生き物の生き死にに真剣に向き合ったが故に肉を食べられなくなった人、と考えています。また、その向き合い方は、人も動物も植物もみんな一緒の生き物だ、というものです。


さて、この前提の上で読んでもらいたいのですが、今度の議論の始まりは、「命の重さや、その価値」という方向でした。


具体的に、こういう話のことです。


・本来自然界では、生き物が殺されることはよくあることだ。生まれたばかりの蝶がすぐにカマキリに食べられてしまったとしても、そのカマキリを他の生き物が自分の利益のため以外に攻撃することはしない。自然界では、弱肉強食が成り立っているのだ。

(副題として、動物は復讐するのか?、という疑問が挙げられます。哺乳類で、割と上位の種である犬なんかは、主人がなくなったときに主人に寄り添うことがあります。つまり、死を特別なものと捉え、あるいは悲しんでいるということです。こういう例を見ると、動物にも感情があって、人と同じように生きていると思えます。ただ、主人が殺されて死んだときに、動物は殺したやつに復讐するのでしょうか? つまり、復讐、利害など関係なしに自分の命をなげうってでも相手を攻撃しようとすることです。)


・また、生き物を上位種と下位種に分けてみると、上位種になればなるほど、その種の中のある一個体が生きる時間は長くなり、反対に、下位種の場合、短くなる。ハエが生まれてそう長くない時間、1か月くらいなのに対し、象は、60年ほどと長い。(こちらを参照:ハエ・象)この場合、個体によって、生きる時間に差異はあるが、種同士の比較であるため、その種の個体の生きる時間の平均時間を考える。…とすると、象一匹が生きる60年の間に、ハエは720回死んでいることになる。象より、ハエの方が、より死の数が多いということは、死により近しいことを意味する。故に、ハエにとって、ハエという種にとって、下位種にとって、死というものは日常的なものである、と言えるだろう。


・こういう基準で、生き物の命の重さについて、また、その価値について分類できるだろう。


しかし、こんな意見も出ました。


・そんなに簡単に命の重さについて分けられるのか? たとえ種同士で分けられるとしても、もっと様々な要因が複雑に絡み合っているはずだ。時間だけで区別されるのはちょっとおかしい。例えば、その動物がどこに住んでいて、どんな生態をしていて、どの動物を食べ、どの動物に食べられるのか、などのことも大きく関わってくるはずだ。例えば、子魚の場合、「プランクトンを食べ、大きな魚に食べられる。その小魚は川ではなく海に生息している。小魚はエラ呼吸をする。」などは、「プランクトンや大きな魚の数、海の汚染、酸素を使うことで、水中の濃度を一定に保っている。」というように捉えられる。生き物は、それぞれ異なる方法で、環境に影響を与えている。つまり、それぞれの生物に、今挙げたような地球にとって良いような役割がある。こういうことも考慮に入れるべきだ。(→3つ目の写真の「地球的命の境界線」のことです。)


・また、人それぞれにとっても命の重さは異なる。例えば、私が全く知らない人と、自分の母親の、どちらかの命しか救えない状況になったら、私は母親の命を選ぶだろう。それは、母親が自分にとって大切な人であり、身近な人であるからだ。つまり、その人の歩んできた人生によって、大切な命は変わる。だから、命の価値の境界線は人によって全く異なる場合もある。


「しかしながら」、あるいは、「そして」、という接続詞ですが、この意見に対して、こういう意見が出ました。


・生き物は、地球にとってただエネルギーを浪費するだけの悪いものではないのか?




さて、これまでの話を前提として、さらに、このような疑問が投げかけられました。


・人それぞれ命の重さや、その価値は異なるが、もっと客観的に決まるような基準もあるのではないか?

・そもそも、命の重さや、その価値について境界線を引くことは、倫理的に正しいことなのか?


この質問が出たとき、境界線は、人それぞれによって決まる個別的なものがあることは全員に納得されていましたが、客観的に決まるような普遍的なものの方は、納得している人と納得していない人が両方いる状態でした。納得していない人には、「もしその普遍的な基準があるとして、それはどのようなものなのだろうか?」、という疑問があるようでした。そこで、各々が考えている境界線のイメージを共有することにしました。


※ここから、境界線という言葉の意味の確認が始まってきます。また、境界線を引くことは倫理的に正しいのか?、その善悪について議論されるのは、議論の最後の方になります。しばらくは、2つあるうちの前者の方が議論されます。


質問は、客観的に決まるような境界線についての議論を目的としていましたが、各々のイメージしている境界線についての共通認識を作る意味合いも含まれています。




ある人が、皆さんは境界線をどのようなものだと考えているのでしょうか?、と質問しました。


僕は、「境界線とは言語による世界の分節のこと」だと考えていると、答えました。


しかし、これは的外れな答えだったようです。


どういうことかというと、こういうことです。


・境界線とは言語による世界の分節である、という話は、どの問いやテーマでもそうだが、そもそも議論をするにあたって、当たり前のことである。なぜなら、議論をするためには言葉を使わなければならないからだ。また、話をするときに、みんながみんないつも意識的にしているわけではないが、多かれ少なかれ、無意識的な部分では、みんな世界を言葉で切り分ける作業をしている。そして、みんなが世界を言葉で切り分ける作業を、無意識的であってもしているわけだけれども、それぞれが様々な切り分け方をしていて、その中の一つにあなたの切り分けた境界線というものがある。では、あなたの境界線は、みんなの境界線と、どのように違うのだろう?つまり、今回問題にしていることは、「あなたの境界線は、どのようなイメージで、どのような形をしているのだろうか?」ということだ。


ここで、さっきとは違う人が立ち上がり、何かを書き始めました。それ以外の人は、じっくりと思考しているのか、ゆったりと席に座っていました。僕は、少し自分の思考が浮足立っていると感じ、他の人と同じように、席に座ることにしました。


何かを書いている人は、境界線の図はどのようなイメージなのか、について書いていました。(→3枚目の写真にあります。)


図はこのようなものでした。


・その図はそれぞれの種の命の重さの位置、数値を表していて、中心から、人間、家畜、動物、虫、植物、のような順で円状に広がり、並んでいる。中心から離れれば離れるほど、命の重さは軽く、低い。中心が最も重く、高い。いわば、地図の中のある一つの山に対する等高線のようなものである。例えば、動物の上位種という等高線には、猿(種として)、オランウータン、チンパンジー、ニホンザル、などが並列する。故に、複数あるために円状である。人それぞれ、世界、地球、など何でもよいが、何かにとってこの図は必ずひとつに決まる。決まり方は、主観的、客観的、など何でもよいが、これも必ずひとつの方法に決まる。今は、客観的に決まるような場合を考える。さらに、それぞれの境界線は内側を包括していなければならない。(→3枚目の写真に書いてあります。)


ここで僕は、なぜ境界線は内側を包括していなければならないのか?、と質問しました。


しかし、単純に考えて、境界線は命の重さの数値で決まるのだから、一つの数値に対して一つの輪ができるはずです。


僕は、質問し返されてしまいました。


そこで、僕はこんな話を出して説明しようとしました。


・イデアの世界で考える。リンゴというものは、私にとって、その要素に、赤い、甘い、丸い、なんかの要素を持っているが、別の人にとっては、赤くない、青くて甘くて丸いリンゴが本当のリンゴであるかもしれない。この場合、その人にとって、リンゴというものは、その要素に、青い、甘い、丸い、という要素を持つものになる。つまり、同じリンゴであるのに、リンゴという概念を形づくるものが人によって違うということである。すなわち、リンゴという概念、またはそのイデアの境界線が、色、形、味、などの要素で形作られている中で、今の例を見ると、色の部分が不確かで、時と場合によって、境界線が一部で切れてしまっているかもしれない可能性がある。だから、必ずしも境界線というものは、どこも途切れていないでつながっていて、内側を包括しているようなものではない。


・故に、今回は、命の重さの境界線であるが、なぜ今回は包括しているという保証ができるのか?、という疑問が湧く。


ただ、僕がこのことを対話でうまく説明できなかったために、それに、「言語の話、言語哲学は、どのテーマに対しても関連する話題であるので、こういう話題よりも、もっと生命倫理に関係する話をした方が良いのではないか?」という意見もあったので、今回の対話ではこの話に関連する観点から疑問について考えないことになりました。


※そして、「生き物の生死の尊厳について境界を引くこと」とは、「命の重さを階層化して、それぞれに分類すること」と、ここでは定義しようとなりました。




僕がこの時、うまく説明できなかったことについて、考えていたことを少しばかり載せておきます。それは、「言語によってものの区別がされないとしたら、何によってされるのか?概念か?」という疑問についてです。


こんな例を出して考えてみます。例えば、今、僕の目の前に箱と本があり、箱の中に本が数冊積み上げられて収納されているとします。当然僕は、箱と本がくっついているとは思いません。箱は箱、本は本、と区別しています。さらに、本それぞれはくっついていない、と区別しています。これを、普段の日常生活の中でいちいち言語化していません。この場合、僕は、概念でものの区別をしています。そうですね。確かに言葉以外がものの区別をする時があるのかもしれません。しかし、「概念」というものも、結局は言葉で区別されています。とすると、言語以外によってものの区別はされない、と言えなくもないです。


しかしながら、ここで考えてほしいのは、言語以外がものの区別をすることもある、ということを示すのは、何なのか?、ということです。それは、言語なのでしょうか? 言語で示されてしまっては、もう、言語ありきになってしまいます。では、言語ありきにならないためには、言語以外がものの区別をすることもある、と、言語を知らない存在に(言語以外の方法で)教えられなければなりません。その方法が、存在していなければなりません。それが可能でなければなりません。いったい、そんな方法が、どこにあると言うのでしょうか?


僕は、この言語の閉鎖性、循環する閉鎖性に、しばしば悩まされます。



さて、言語の話は置いておく、という上で対話をすることにしたのですが、いったんこれまでの話をまとめることにしました。これまでを振り返ると、焦点は、彼らにとって動物や植物はどのようなものなのか、その捉え方から、様々な生き物の命の重さの境界線や、その図のイメージ、という方向に進みました。だいぶ議論が流れました。


4枚目の写真の中段右の図を用いて、こういうまとめがされました。



・生き物の命の重さについて階層化し、分類してみると、生き物には、1:その命は大事、その生き物を殺してはいけない、2:その命は大事、その生き物を殺しても良い、3:その命は別に大事ではない、の3種類があることが分かった。この図では、1、2、3、の順に中心から外縁に並んでいる。それぞれの生き物に対して、その種がどこに属するかで命の重さが決まる。また、それぞれの階層を分ける基準について、命が大事、というのは、人の手を加えてよいか否か、ということである。殺しても良い、というのは、そのままの意味である。



その上で、「客観的な命の重さの基準はあるのか」という問いについて考えてみることになりました。


すると、例えば、こんな図(4枚目の写真の中段左の図)が考えられるという意見が出てきました。



・この図では、人とそれぞれの生き物について命の位置が相対的に決まる。例えば、人と家畜の場合は、人が動物を家畜化し、動物の生を強く制限している、という意味で、命の位置関係が決まる。人とペットという場合は、動物をペットとして扱っているが、そんなに強くは生を制限していない、という意味で、家畜とは別に、命の位置関係が決まる。このように、人間が一般に生き物に対して行っているようなこと、また、そのような行為の種類から、動物をある程度明確に区別することができる。だから、この区別の仕方は、それぞれの人で、細かな部分の位置関係が異なっていたとしても、だいたいの部分はすべての人に共通して言えるような構造になっている。つまり、今の例の、人と家畜とペットの3つで言うと、「人が中心にあり、人の右上の方に家畜があり、ペットが人の真横にある位置関係だとしたら、その位置関係の形はただ一つに決まった三角形であり、その三角形という形がすべての人に共通している。そして、ペットが人の真下にあるような三角形の人はいない。」ということである。

・そして、今説明したこの図(→4枚目の写真の中段左図)と、命の重さを階層化した図を重ね合わせると、それぞれの人にとって、それぞれの動物は、1、2、3、のどの部類に入るか?、が分かる。

・また、それぞれの人で、それぞれの動物が、1、2、3のどの部類に入るか、は異なっているのは以下の理由による。

例えば、家畜が1に入る人もいれば、2に入る人もいる。これについては、命の位置関係、つまり、「それぞれの種同士の相対的な点の位置関係(今の例での三角形)またはその比」は客観的に決まるような一つの形があるけれども、人によってどんな大きさかは異なっていて、それぞれの人で様々な大きさに拡大縮小されている、と考える。人と家畜とペットの3つの例で再び考えてみると、家畜よりペットの方が、中心である人に、より近いとなっている場合、例えば、家畜が1の部類に入るなら、ペットも必然的に1の部類に入る、ということになる。



しかし、この意見の反対意見として以下の意見が出てきました。



・私にとって、そこらでたまたま会うような見知らぬ人より、母親の方がよっぽど大切な存在である。このどちらかを殺さなければいけないとき、間違いなく私は、母親を1の部類、見知らぬ人を2の部類に入れて、見知らぬ人を見捨てるだろう。この例を見ると、命の重さの境界線というものは、個人の経験や育ってきた環境にも大きく左右される、と分かる。ベジタリアンにとって、家畜が1の部類に入るのも同様の現象だろう。だから、主体とその主体から見た動物の位置関係は、ある程度社会的に決まっているのかも知れないが、このようにそれぞれ大きく変化しうるものだから、確固とした客観的な基準などない。よって、客観的に決まった位置関係の図を拡大縮小して貼り付けるというよりも、やはり主体から見たそれぞれの動物への価値観のみが重要であり、右図のモデリングが全てだといえる。



つまり、言葉で説明するならば、「境界線を引くこと」=「命の重さを階層化して、それぞれを分類すること」ということになります。


さらに、この定義を踏まえて、4枚目の写真の中段右図の中で、個人の中でもはっきりと分類をしにくいものとして、植物状態の人間や、キメラ、培養肉、家畜、除脳された鶏などの、今まで問題としてきた例があるのだろう、という確認がされました。これらの例は、社会的にどう位置づけるべきか、という議論の対象であって、明確にこうであると定められるものではないのだろうと思います。


このようにして、この対話では、「客観的に決まるような命の重さの境界線」はない、と否定されました。



また、命に対して境界線を引くことの善悪については、このような話が出てきました。


・境界線を定める基準はあいまいであり、一意には定まらないとはいえ、博愛主義はどこまで通用するのか? よくよく考えてみると、やっぱり人間も生物なのだし、生き物を殺して食べ物にすることはしょうがないことで、善といえるのかもしれない。


・ただ、だからといって命に序列をつけてしまうのは、やはりいけないことのような気もする。また、命の重さの基準は、主観的な価値観によって恣意的に定まるので、論理的に、命に序列を付けることは不可能である。だから、命の序列化は悪であるが、前の意見のように生きるためには必要なことなので、必要悪なのだろう。


・これまでの議論から、人間が他の動物の命を序列化することは必要悪だという結論はでたが、そもそも、自然界では、サケを食べるクマは罪悪感を感じていない(ようにみえる)ように、生物が命を犠牲にして生きることは、ごく当たり前のことなのに、なぜ人だけが命に重みを感じるのだろう?



対話は大体ここで終わりましたが、このまま対話を続けるとしたら、これからどのような方向に議論が続いていくのだろうか?、ということなどを話しながら、振り返りをしました。(5枚目の写真、または、<今回の対話から学んだこと>をご覧ください。)


時間の関係で、このあたりで対話が終わりになります。


しかし、結局のところ、なぜ彼らは肉を食べられないのでしょうか?

あなたはどう思いますか?




哲学対話では、いつもこのように、ある1つの疑問やテーマについてゆっくりじっくり真剣に考える、ということをしています。

議論の序盤は、問い出しや問いの意味の確認、そして、具体例などを挙げつつ盲点や見落としがないかを考えながら、中盤にかけて議論を煮詰めていく、最後に、結局のところどうだったのか、まとめと振り返りをします。

振り返ってみれば、当たり前のことをただ単に1つずつ時間をかけて馬鹿丁寧に確認しているだけのようにも思えます。いや、実際そうなのかもしれません。しかし、哲学が教えてくれることは、自分は分かっていると思っていたことが、実は本当には分かっていなかった、ということに気づかせてくれることです。有名な言葉に、ソクラテスの「無知の知」という言葉がありますが、哲学対話は、思考の主体的な実践を通して一番わかりやすくこの「無知の知」を経験できる形式だと思っています。


ぜひ、このありとぷらに興味をもって参加してくれる同志がいることを願います。



<今回の対話から学んだこと>

・質問の意味の確認や、分からない言葉の意味の確認、そして、その言葉を使った人による言葉の意味の説明は、哲学対話において特に重要なことである。こういう確認なしに議論を進めていくと、たびたび議論のゆく先を見失う。

・また、この確認なされないまま、さらに、全員がどんどん発言をしてしまったことも、議論が迷路に迷い込んだ要因と言えるだろう。コミュニティボールをもっている人のみ発言できる、というルールを徹底すべき。(コミュニティボールについては、こちら。)

・もう少し、様々な観点から問いを見つめられていれば、議論が深まったかもしれない。様々な視点からみることは大切だ。

・相手の話を理解すること、自分の話を相手に伝えること、など、意思疎通ができているかどうか、もっと気を付けるべき。



お問い合わせ

gmail:aritopura@gmail.com

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〈おまけ:今回のトピック集〉

・ベジタリアン/ビーガンの人は、なぜ肉を食べられないのか、の予想が目的。

・人間による動物や植物の生の支配、本来対等であるべき同士の命。

・思考と思念の違い。そのうえで、豚は人のように思考するのか?

・普通の肉とは何か?-除脳すること、培養肉、バナナのように見立てて木につるしたモモ肉。

・生き物を加工するという人間の命への侮辱。

・命やその尊厳について境界線を引くことは可能なのか?

ー文明による人間の種類の細分化 ー自然界では弱肉強食。死は日常的。 ー生き物が地球に果たす役割とは?

・主観的に決まる命の境界線、客観的に決まる命の境界線。

・命の境界線の図のイメージの一例

・境界線とは言語による世界の分節。イデアの世界を考えると?

・まとめ。次の焦点は?-命に境界を引くのは倫理的によいのか? -分類のややこしい例、キメラなど。

ありとぷら

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