11月定例会 ふりかえり


・問い

部屋は綺麗なほうがいいのか?

・問いの背景

部屋を片付けるが、片付け終わるとなんだか寂しくなる。一般に、部屋って綺麗な方がいいとされるけど、本当か?

・当日の写真

▶︎問い出し

▶︎メモ

▶︎ 会全体の感想と対話を通じて思ったこと(倉田)

今回は全体的に楽しい哲学対話でした。何点か良かったなあというポイントを挙げてみます。


・落ち着く和室

まず、場所がはじめて和室だったこと。久しぶりに畳にすわって、(紙パックの)お茶を飲んだり、(コンビニで買った)和菓子を食べたりしながらお話して、癒される感じがありました。参加者の中には和装で来ている人もいて、新鮮で面白かったです。

こう考えてみると、今回の問も、「居心地の良さって何?」をテーマにして色々掘れたなと思います。和室には個人的に整理された空間だっていうイメージを持っていますが、落ち着く感じがします。普通は整頓されてきれいすぎると落ち着かないのに。(個人的には。)でもこの落ち着くは、家の落ち着く感じとはまた違う落ち着く、かもしれない。整う系の落ち着きとハイパーリラックス系の落ち着き?どう違うんだろう。


・面白い問い?

次に、面白い問いがめちゃめちゃ出てきたこと。折角たくさん今回「面白い問い」の例が集まったので、「面白い問い」が出るときの話し合いの場の特徴を改めて振り返って考えてみました。特に背景は載せずに箇条書きにしてみたので、皆さんも考えてみてください。


①それぞれ本当に興味がある問を出している。
②さくさく問がでてくる。
③それぞれの問を色んな人が深堀しようとする。
④1つの問が出ると、それに触発されて関連した新しい問いが出てくる。
⑤問に批判的な感情を載せていない。
⑥参加者の睡眠時間がたりている。


・縦に掘り下げる対話

最後に、対話が発散せず、それぞれのトピックを深堀できたこと。

最近の対話では、色々な話に飛び火するような話し方が多く、一つのことがらが起こるメカニズムや背景を話すことができていませんでした。大学生あるあるなのかな、と思っていましたが、今回はそうならず、楽しい対話になりました。横に広がっていく対話と縦に掘り下げていく対話、なぜ後者の方が楽しいのか、どちらになるかを決める原因は何か、とても気になっています。

今回の哲学対話は、こうした対話の仕方についてもそうですし、対話の内容自体も、私にとっては示唆に富んだものだったので、楽しむことができました。
また、新規の参加者の方とも楽しく話せて、とても充実した時間になりました。

ありがとうございました。



▶︎対話内容について個人的な感想、まとめ、備忘録(大熊)

(特に筋とかなく、対話とそれを聞いて思ったことのまとめです、乱文失礼。)


片付けるには、整頓すると捨てるの二つがあると思う。

整頓されていて「もの」が少ないのが好きな人、整頓されていて「もの」が多いのがいい人、「もの」は少ない方がいいが整頓にはこだわらない人、「もの」も多くてごっちゃがいい人、色々いると思う。


私は「整頓されていて、ものが多い」という状態が好き。
だから、問いを聞いたときに、片付けのさみしさは、「もの」を捨てることにある、と解釈した。

(整頓する、しまうだけでもさみしいという意見もあって、驚いた、感覚はよくわからないけど面白い。ここから展開することもできたと思う。目につくものの存在感とか。)


ではなぜ、「もの」を捨てるのはさみしいのか。


① アニミズム的な視点

ぬいぐるみが典型例。「もの」にも精神があるはずだ。

② 「もの」や、「もの」で構成される部屋は、自己の拡張という視点

物欲は、それを保持する状態の自分になりたいという欲を含む。

また、「もの」は記憶を引き出すトリガーである。
「もの」や部屋は、なりたい自分、過去の自分が投影される。


この二つが、大きな視点であると考える。(もちろん複雑に絡み合うだろうけど)
それぞれについて私が今、考えること。


①に関して

・部屋って絶対君主の「国」に似ていると思う

部屋主は、王さま

部屋は確かに自分の支配領域であるけど、一方で、部屋や部屋の「もの」と自分は共生しているという意識がある。

「トキメクもの以外捨てる!」という思潮への違和感、なんだか排他的じゃない?という印象は、「自分の気にいる臣民以外、存在を認めない!」という王さまへの違和感と似てるんだな、と腑に落ちた感じがあった。


・「完全に捨てる」ができない私には、甘えが潜んでいる気もする

「トキメクもの以外捨てる!」は排他的である印象を持つ一方で、

完全に捨てることが苦手な自分って、なんだか無責任な感じがする。


臣民(もの)を自分の意思で選択して所有するならば、

大切に(トキメクがこれにあたるだろう)扱う。

大切に扱えないなら、臣民を殺す(完全に捨てる)覚悟がなくてはいけないんじゃないか。


もったいないという精神で「もの」を知人などに譲ること自体は、いいことだと思う。
また、「もの」は人の間を回ると考えて、自分は所有者の一人にすぎない、借り手であるとして丁寧に扱うこと(例えばマンションの部屋)も、いいことだと思う。


でも、捨てる覚悟がないのに所有して、いらなくなったら完全に捨てもせずに、無責任に放棄することはなんだか「もの」に失礼な気がする。

ちゃんと考えもせずに買ってしまったものを、フリマアプリに載せること・ブックオフへ持っていくことへの罪悪感は、いらなくなった臣民を知らない国に押し付ける無責任さに近しいと感じる。


アニミズム的な考えは、科学的には稚拙かもしれないけれど、

アニミズム的な考えをどこかで持つことによって、

責任を持って「もの」を所有する、背筋の通った人間(感覚だからうまく説明できないけど)になれる気がして、

そうである方がかっこいい、そうありたいと思っている自分の気持ちに気付いた。

(ではなぜ、「もの」を所有するには責任を持つべきと私は考えるんだろうか?分からない。)



②に関して

・自己同一性を担保してくれる「もの」

「もの」や部屋は、自己の拡張という意見はすごく腑に落ちた。
だから「もの」を捨てることは自分の一部を捨てている気がするのか。


「もの」を捨てることは、とある「もの」を所有している状態になりたいと思って買った、かつての自分と未来の自分を捨てる感じがするし、

思い出の品、記憶を引き出すトリガーとしての「もの」を捨てることは

過去を思い出す未来の機会を捨てることにつながる気がする。


「もの」は、過去・現在・未来の、私の、時間軸を一直線に繋ぐ性質を持つ。
その性質が、私の自己同一性を担保してくれている気がする。


過去は思い出せなくとも自分の中に沈積しているから大丈夫という意見も分かるけど、

それでもやっぱり意識の上の引き出しにあって欲しいのは、

思い出せないことが自己同一性を揺らがせることに繋がるようで、なんだか不安を感じるんだな、と気付いた。


・かけがえのない唯一の「もの」

それから私は、こうした自己同一性を感じさせてくれる「もの」は、

代替不可能で、ただ一つ「そのものだけ」しかない、と思う。

(代替可能派もいて、これも驚いた。)


例えば、私は本が好きで、本が捨てられない。

とくに小学校の頃から読んでいる本とか。

その本が、たとえ捨てても、後で買い直せたり、電子化できたり、図書館で借りれる本だとしても捨てられない。

それは、小学生の時の私とともにあった本は、ただその一冊だけで、
その一冊だけが、私がずっと同じ私であったこと示してくれる気がして、安心するんだと思う。


私の自己同一性をしめしてくれる「もの」は、ただ一つのそれだけであると私は考えるから、

アニミズム的な面を除いても、「もの」に愛着、かけがえのなさを感じるのか、と気付いた。


(では、知らないうちにすり替えられて、それに気付かなかったらどうだろう?気付かないなら唯一この本だけが思い出の品!と思い込んでいれさえすればいい、ということになりそう、なんだか寂しい)

(それから、「もの」を愛することは、「もの」に投影されたかつての自分を愛すること、未来の自分を愛することにも繋がっていて、自己愛が含まれるのか、と対話を聞いていて思った。)



以上が、哲学対話を聞いて、今(翌日)思ったことです。長文失礼しました。

昨日は久しぶりに、私にとって気付かされることの多い対話で、とても楽しかったです。

来てくれた皆さんありがとうございました。





















ありとぷら

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