六月定例会振り返り
6/4(日) まなび創生ラボ東日本橋SHOKUTAKU 14:00~17:00 6名(初参加3名)
六月は、ありとぷらとしては珍しく哲学対話が初めてという人が三名いました。今までとはまた違った雰囲気と形式で非常に対話がうまくいった気が私はしました。
「意味を与えるとはどういうことか」というのが今回の問いでした。ここから出た意見を箇条書き風に書き連ねたいと思います。
意味を与えるとは自分の世界を作ること
意味を与えることとは付けることは似ている?
名付けることは意味を与えることの一種
もし名前もない、得体の知れないものがあったとしたらそれは意味はないと言えるのか
無関心であることと意味がないことは同義であるか
自分の世界に取り込んだ時、意味を持つ
意味のないもの=気付いていないもの?
意味のないものにそもそも名前をつけるのか
価値=意味であるのか?
意味がないということは価値のある/なしもない
認識していると意味がある
意味を与えて音源をたくさん取り込むと成長する(自分の世界が拡張する)
自分の認識の中の「外の世界」よりも自分の内の外の世界から何かを取り込む方が難しい
ひらめきとは何か
認識していないのに自分の中にあるものがある?
視界に入っているけど焦点が合っていない、意識していないものは?
認識するとは自分の内の世界にスポットライトを当てるようなもので、照らされている部分は意識しているが照らされていない部分は意識していない、あるいは忘れている(焦点が合っていないのと同じ)。そしてスポットライトの周辺の部分にはぼんやりと光が当たっていて、関連して認識しやすい。
自分の中の世界では色々なものが網目のようにつながっている。例えば、ある人にとって机は椅子との網目状の距離が近いし、ゴジラと机は遠い(机と椅子を同時に想起することは多くても机とゴジラを同時に想起することは少ない)。さらに、机とゴジラのつながりが新たに作られることによって、自分の中の世界はさらに拡張する。
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